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「ロックで学ぶ現代社会」rock meets education

第1部 『現代社会における人間と文化』〜現代社会の特質と青年期の課題

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第4章 青年期の人間関係

1.一番大事なものはなに?

*大 坂 「今日はまず,こんな質問からしてみようと思う。」

*B 君 「あー,はいはい。」

*大 坂 「合いの手はよろしい。えーとね,『あなたにとって一番大切なものは何ですか?』という質問だ。」

*Aさん 「そんな先生,若い女の子にそんなこと聞くなんて…。」

*大 坂 「Aさん,君,何か決定的なカン違いをしているみたいだね…。B君はどうだい。」

*B 君 「えー,やっぱり自分の命でしょう。」

*大 坂 「そりゃまあそうだが,そのほかには?」

*B 君 「そーですねえ…,やっぱりお金かなぁ。」

*大 坂 「即物的だねぇ。ほかには?」

*B 君 「うーん,CDとか,ゲーム機とかそんなもんかなぁ。」

*Aさん 「私は,やっぱり"愛"よ。愛。」

*B 君 「カン違いが続いてるみたい…。」

*Aさん 「何ですって?」

*B 君 「いいえ,別に。何でもありません。でも先生,何でそんな質問するんですか?」

*大 坂 「このグラフを見てごらん。高校生にとって何がどのくらい大切かということがよく分かるデータだ。これを見ると男女とも「友だち」はものすごく大切だけど,学校はたいしたことがないというのがよく分かるよ。」

Benesse教育研究開発センター子どもに関する意識,実態調査データ

Benesse教育研究開発センター子どもに関する意識,実態調査データ モノグラフ・高校生 53 1997 高校

*B 君 「へぇー,一番大切なものは『ともだち』ですか。女子ではほぼ全員が一番大切と答えていますね。」

*Aさん 「確かにね,やっぱり『ともだち』は自分や家族の次に大切なものですよね。でも,それって授業のテーマの"青年期の特質"とどんな関係があるんですか?」

*大 坂 「大ありさ。『朱に交われば赤くなる』ということわざがあるだろう。どんな意味かな?」

*Aさん 「"一緒にいる人には影響されやすい"という意味でしょう。」

*大 坂 「そのとおり。だけどね,英語のことわざでは同じ意味のことを"A man is known by the company he keeps." とか"Birds of a feather flock together." といって,『仲間を見ればその人が分かる』とか『同じ羽根をった鳥は寄り添う』っていうのだけれど,こちらのほうが分かりやすいかな。つまり似たようなヤツがともだちになるということなんだが,ということはその"似たようなヤツ"を調べてみれば"青年"が何か見えてくるのじゃないかっていうことなんだ。」

*B 君 「分かったような,分からないような…。」

*大 坂 「とにかくねえ,君たちちょっと幼稚園のころから小学校低学年・中学年・高学年,それから中学・高校と,一番仲が良かった人が誰だったか思い出してごらん。」

*Aさん 「えーと,みーちゃんと,ちーちゃんと,さっちゃんと…」

*大 坂 「まあ名前を言われても分からんが,それぞれどんな人だったかな。」

*Aさん 「幼稚園のとき仲が良かったみーちゃんは家がお向かいにあって,その子のお母さんがうちの母ととっても仲が良かったんです。」

*大 坂 「そのみーちゃんとは今も仲が良いかな?」

*Aさん 「別に悪くはないけれど,小学校ではあんまり話をしなくなったかなぁ…。中学校では部活が違って家は近くてもあんまり顔を会わすことがなくなったし,高校は別々になっちゃったので今は週に一度顔を見るかどうかぐらいですねぇ。あんまり深刻に考えたことはなかったけれど。」

*大 坂 「ね。実は友人関係というものは,人間の成長の度合いにしたがってどんどん変わってくるものなんだ。だから…。」

 もちろん例外もあるだろうが,一般的には幼い頃の友人関係が一生続いてゆくというのは珍しいことといわれる。また,幼稚園〜小学校低学年までの思春期以前の幼児期においては,"一番親しい友人"もその日によって違ったりすることも多く,友人関係が非常に不安定である。親しくなる理由・友人になるきっかけも,多くは"家が近所"とか"親同士が友人"とかいうもので,"ともだち"は自分で選び出したともだちではなくあくまで受動的な"他から与えられた友人"という要素が強い。そこには人格的なつながりはあまり見られず,"遊び仲間"としての友人の姿がある。また"性"はまだ身分化で,異性を意識することはあまりない。それに対して,小学校高学年から中学校になると,部活動を通して同じ目標に向かい努力する人物や,同じ趣味を持つ,あるいは同じ価値観を持つ者を友人として主体的に"選択する"ようになる。そして,そのようにして"選び出された"友人は,転居や転校等の物理的理由では簡単に壊れることはない。そろそろ"一生の友"の姿が見えはじめてくる。"性"に関しては,思春期前期には異性に対して拒否感を持つことも多いが,やがては憧憬と恋愛感情を抱くようになる。高校・大学生になるとその傾向はさらに顕著になり,友は主義主張や人生の目的を同じくする"人格的"な関係を持つ友となり,ときには家族や『走れメロス』のメロスとセリヌンティウスの関係のように,自分の生命以上の存在ともなる。そして,それはまさに選び抜かれた"生涯の友"であり,人生の宝ともなるのだ。逆に"性"に関する意識は極めて重大なものとなり,異性間の純粋な"友情"を維持・発展させるのは困難な状況に置かれてしまう。しかし,一方青年期終了以後はおたがいの社会的地位や名声・収入などがネックとなり,人間関係にも打算的な感情が発生し,青年期ほど純粋な友情が成立しにくくなるというのもよく言われることである。

 それでは,このような「青年期における友人関係の変化」はなぜ発生するのだろうか。

 「ジェネレーション・ギャップ」の項で述べたように,"こども"は幼児期においてはほぼ完全に親や教師などの管理下に置かれ,どのような服を着るかどのような幼稚園や小学校へ通うかなどと同様に,どのような友だちを持つかということまでも他者によって決定されることが多い。そして,自我(エゴ)の未発達な幼児期・児童期においては,それを無批判に受け入れることが常である。しかし,自我が発達してくると,それは"保護"ではなく我慢できない"干渉"となる。だが,アイデンティティ模索の時代においては,青年はまだ独立独歩で生きてゆく自信はない。そのような苦悩に満ちた"自己確立"の旅の途上においては,親や教師のような押しつけがましい権威は厭わしい反発の対象となり,同じ苦しみを持ち,お互いを理解しあえる"ともだち"がその旅の伴侶としてどうしても必要になってくるのである。その意味で青年期に適切な友人を見つけることは人生にとって必要不可欠なことであり,青年期の人格形成にとっても重大な要件となるのである。

*B 君 「"ともだち"が大切だとは思っていたけれど,僕はまだそんな"生涯の友"なんていうのはいないような気がするなぁ。」

*Aさん 「あらそう?私はいっぱいいるわよ。」

*大 坂 「とはいってもね,たくさんいればいいってものでもないよ。量よりも質が問題になるのじゃないかな?それに,自分が立派な人間になるための努力をしていない人には,やっぱり同じような努力不足の人がともだちになるものだと思う。『仲間を見ればその人が分かる』っていうのは真理だと思うよ。真の"ともだち"とは,やはり基本的にはおたがいに切瑳琢磨しあえるライバルであって,おたがいの傷をなめあう関係になっちゃだめだと思うな。」

*B 君 「でも,先生。おたがいに支えあう友情も大切じゃないんですか。」

*大 坂 「それは,もちろんそうだけどね。相手のことを思いやり助け合うことも大切な友情だもの。ともだちのことを歌った曲も多いけれど,中でもこの曲は有名だね。なんでも,アメリカ人に『あなたの好きな曲は何ですか?』というアンケート調査をすると,このジェイムス=テイラーの『君の友達』はいつも上位にランクされるらしいね。」

*Aさん 「わぁー,楽しみ。早く聞かせてください。」

*大 坂 「よし,よし。」

YOU'VE GOT A FRIEND  James Taylor 1976

君の友達  ジェイムズ=テイラー(オリジナル:キャロル=キング) 1976年

*B 君 「そうそう,これやこれや,これでんがな。やっぱりこれが本当のともだちですよ。

『春も夏も秋も冬も いつだって 君は 僕に声をかけてくれるだけでいい
  すぐに 君のところへ行ってあげる 僕は 君の友だちだから』

なんてフレーズ最高でしょう。やっぱり,こんなともだちが欲しいなあ。」

*Aさん 「だから,私はたくさんいるって…」

*B 君 「あー,はいはい。でも先生。みんなそんな"本当のともだち"を持っているんですかねぇ。女は四六時中ぺちゃくちゃおしゃべりしていたらそれでいいのかもしれないけれど,男は孤独を愛するロンリー・ウルフみたいなところがあるでしょう?」

*Aさん 「B君それ,女性蔑視じゃない!」

*大 坂 「まあ,どうしても女性のほうが社交的なところがあるからね。その傾向はあるかもしれないね。それにだんだん変わってはきているけれど,まだまだ女性は結婚して家庭に入ってしまうと外の世界と断絶されてしまうところがあるから,一生を通して考えた場合は逆に男性よりもともだちを作りにくいのかもしれないよ。ただ,青年期においては『心を打ち明けて話せる友人がいますか』という問いに対して,高校生では『いる』と答えた人が男71.4パーセント,女84.9パーセントと,女性の方が親友が多いみたいだし,大学生になっても男82.1パーセント,女89.0パーセントと近づいてきてはいるけれど,やっぱり女性の方が友人関係には熱心みたいだね。(令文社『96高校生のための新現代社会資料集』52ページより)私自身がしばらく前に本校生徒で調査した結果だと,女子は73パーセントが親友ありと答えたのに対して,男子は何と48パーセントしかいなかったなんてこともあったよ。ロンリー・ウルフはさておき,やはり男性の方がよく言えば独立独歩,悪く言えばつき合いベタというところがあるみたいだね。だから,そんな男の気持ちを歌ったこんな有名な曲もあるよ。」

I AM A ROCK  Paul Simon & Art Garfunkel 1966

アイ・アム・ア・ロック  サイモン&ガーファンクル 1966年

 サイモンとガーファンクルは1960年代を代表するフォーク・デュオ。名曲『サウンド・オヴ・サイレンス』以来次々とヒット曲を飛ばし,ポール=サイモンの哲学的な詞は,ボブ=ディランと並んで,若者,特にインテリ階層に大きな影響力を持った。この『アイ・アム・ア・ロック』では,ポール=サイモンは,

「僕は(他から影響を受けることのない)岩であり,
  僕(他から隔絶した)島である」

と,孤立した心を歌い,

「つらいだけの友情なんて 僕には 必要ない
  友情なんてお笑いさ 愛すべきだが 好きにはなれない」

 「"愛"だって? そんな話は もうたくさん 
  昔は そんな言葉も 聞いたことがあるけれど
  今は 記憶の彼方
  寝た子を 覚ますような まねはやめよう

と,他の人格との触れ合いを完全に拒否している。しかし,もちろんこれは彼一流のシニカルなアプローチであり,プライドが高いあまり素直に他人との交渉を持つことができないが心の中は孤独にさいなまれている"青年"の気持ちを表現していると考えるのが適当であろう。これは,ビートルズの『ひとりぼっちのあいつ』と同じ反語的表現といえる。結局のところは,若者は内なる本当の自分を求めて旅するとき,「本当に自分を分かってくれる人などはこの世に存在しないのだ」とどうしようもない孤独感に襲われ,友情さえも厭わしく思われて逆に孤独を愛するようなポーズをとることがある。しかし,それはとりもなおさず,彼がそのような友人を心から求めているのだということを行間から読み取りたい。

*Aさん 「でも,いくら反対のことを言っているといいながらもこんなに偏屈な人は嫌だわ。オタクっぽいもの。」

*B 君 「でも,なんか気持ちは分かるなぁ。」

*Aさん 「そぉ?かっこつけちゃって。でも,先生。このサイモンとガーファンクルっていう人たちは,もともと偏屈なんですか?こんなにきれいなハーモニーを聞くととてもそうは思えないんですけど。」

*大 坂 「もちろんそうさ。この曲を作ったポール=サイモンという人は,ポピュラー音楽界最高のシンガー・ソングライターの一人だからね。ともだちのことについても,正反対のアプローチをした名曲中の名曲があるよ。」

BRIDGE OVER TROUBLED WATER Paul Simon & Art Garfunkel 1969

明日に架ける橋  サイモン&ガーファンクル 1969年

 1969年の大ヒット曲というよりも,世界ポピュラー音楽史上にさん然と輝く名曲中の名曲がこの『明日に架ける橋』である。ポール=サイモン作で,アート=ガーファンクルの,天国にまで届きそうな伸びやかな歌声で歌われるこの曲は,基本的にはうちひしがれた友を力づける曲である。しかし,ここで語られる友人に対する基本的なスタンスは,『君の友達』とはかなり趣を異にする。「君のためなら何でもしてあげる」「オレにまかせておけ」という『君の友達』に対して,『明日に架ける橋』では,

「僕は いつでも 君の味方さ   つらいときが来て 友だちも見つからないときには
  逆巻く濁流に架かる橋のように 僕が身を投げかけてあげよう」

と,最初は友に対する献身的な友情を語りながらも,最後には,

「今 君が輝くときが来た 君の夢も もうすぐ全部かなうさ
  さあ その夢の輝きを見つめていよう
  君に 友だちが必要なら 僕がすぐ後ろを ついて行ってあげる」

と,歌いあげる。あくまでも,自分で努力する友の"すぐ後ろ"をついてゆこうというのであって,決して「オレについてこい」と大見得を切るものではない。しかし,切瑳琢磨し,生涯にわたりおたがいがおたがいを高めあうような友人関係を維持発展させるには,この相手を最大限尊重する姿が必要なのではないだろうか。この曲はそのような友人関係の大切さを教えてくれる。

*Aさん 「なにか,こう,グッと来ますね。すごい曲です。私この人たち,とっても好きになりました。この曲聞いていると『ともだちって大切なんだ!』って,つくづく思いますね。こんなともだちがいれば,いじめなんかがあっても絶対に自殺することがないのにね。」

*B 君 「本当にそうだね。でも,日本には"友情"を歌った歌ってあんまりないですねぇ。恋愛の歌ばっかりで。"ともだち"なんて大げさにゆうと,なんか恥ずかしいのかなあ?その点,英語だと違和感がありませんね。」

*大 坂 「そうだね。なんか日本語で"友情"なんて言うと,"クサイ"とか"ダサイ"っていうイメージがあって,小学校の修学旅行で買った"友情"なんて書かれた観光地のペナントは,今はとてもじゃないけれど恥ずかしくて部屋には飾れないだろう?」

*B 君 「でも,太宰治の『走れメロス』みたいな作品は読み継がれているじゃありませんか。」

*大 坂 「1970年代までは"友情"って声高に叫んでも,それほど恥ずかしくなかったんだけどね。竜雷太とか,森田健作とか,村野武範とか,中村雅俊とかが出てくる青春ドラマって,必ず最後は夕日に向かって『バカヤロー!』って叫んだり,海に向かってラグビー・ボールをけっ飛ばしてみたり,今考えるとむちゃくちゃアブナイことをやってるんだけれど,あの時代にはそれが全然おかしくなかった。やっぱり"時代のムード"というのがあったんだよ。」

*Aさん 「古いですねぇ,先生,本当はおいくつなんですか。」

*大 坂 「18。」

*Aさん・*B君 「ウソツキ!」

2.青春するのはムズカシイ?

*大 坂 「まあ,とにかくだ。現代の社会は若者が『青春するのがムズカシイ』時代になってきているのは確かだね。」

*B 君 「また,わけの分からんことを…。」

*大 坂 「つまりね,例を挙げれば,『青春』とか『友情』とか『愛』みたいにひとむかし前なら若者の専売特許だったような言葉とかも,今では恥ずかしくて人前では口に出せないようになってしまっただろう?『夕陽に向かってバカヤロー!』も,『海へ向かって蹴飛ばすラグビー・ボール』も今やギャグにしかならないね。青春しにくい時代になったって言わざるをえないだろう。たとえば,かつての青春ドラマの主題歌だった中村雅俊の『青春貴族』という曲を知っているかい?」

*Aさん 「それもロックなんですか?」

*大 坂 「いいの。私は守備範囲が広いんだから。」

青春貴族   中村雅俊  1974年

*B 君 「ちょっと,先生,やっぱりこれちょっと恥ずかしいですよ。『いちばん大事なものは 何? きまっているよ 友達さ』『いちばん嫌いなものは 何?おあいにくさま 勉強さ』なんて,絵に描いたような"青春ドラマ"じゃないですか。」

*Aさん 「本当。『難しいことは 知らないが 若さが何かを 知っている』だなんて,聞いてるだけで顔が赤くなるわ。でも,いったい何を知ってるっていうの?」

*大 坂 「そんなことで悩まなくてよろしい。ただね,今からほんの30年くらい前までは,若者が『自分は若い』と胸を張って誇ることができた時代だったんだな。ところが,今やそんなことはこっぱずかしくてとてもできないものなぁ。それにコギャルとかマゴギャルとか何とかギャルとかかんとかギャルとか,いろんなやつが現れて,高校生が『アタシもう若くないの』なんて時代になってきただろう。若者受難の時代だね。そんな中で伝統的な友人関係もだんだんと希薄になってきている。ベタベタした濃厚な人間関係を嫌って,表面的には上手につき合うけれど実のところおたがいに人格的な影響を及ぼしあうような友だちつき合いはまっぴらごめん,という若者が増えてきている。学歴社会が進んで"教室のやつらはみんなライバル"みたいな考え方が広まってきたせいもあるのじゃないかなと思うけど,『今はビリで いるけれど 十年さきは 先頭さ』なんてことはちょっと考えにくい世の中になってきたものね。イジメなんかもそんな伝統的友人関係の崩壊の中から生まれてきた出来事じゃあないかなと思うんだ。」

*Aさん 「なるほどねぇ。確かにともだちはたくさんいるけれど,ときにはうっとうしくなることもありますものね。もう,どっか行ってよって言いたくなるときがあるわ。」

*大 坂 「それに社会のマルチ・メディア化にともなって,"こどもがこどもしにくい"時代にもなってきているね。」

*B 君 「えー,どういうことですか?」

*大 坂 「つまり,ずっと昔にはテレビもマンガもなくて,"こども"たちは,朝から晩まで群れになって野山を駆けめぐりながら泥だらけになって遊ぶのが世の常だった。テレビが登場しても最初のころはチャンネルの数も少なかったから,同じ曜日の同じ時間にはクラスのともだちもたいていみんな同じ番組を見ていた。だからまだ一体感があった。ところが,テレビのチャンネルが増え,マンガ雑誌が次々に登場し,電話が普及し,ビデオやテレビゲームやパソコンなんかの新しいメディアがどんどん出てくると,こどもたちは"子ども"から"個ども"になっちゃって,同じ部屋で一緒に遊んでいるように見えても実はまったく違うことをしていたりするような時代になってきたものね。インターネットなんかその一番分かりやすい例でしょう。おたがい顔も名前も知らなくてもチャットやBBSでコミュニケーションができるんだもの。だからこんな曲も生まれてきたね。伝説のフランス人ロックン・ローラー,ミッシェル=ポルナレフの『グッドバイ・マリルー』っていう曲だ。」

*B 君 「よくそんな曲さがしてきますね。」

*Aさん 「それに先生,フランス語なんて分かるんですか?」

*大 坂 「あー,ウルサイ!黙って聞きなさい。」

GOODBYE MARYLOU Michel Polnareff  1990

グッドバイ・マリルー   ミッシェル=ポルナレフ 1990年

*B 君 「しかしまあ先生,奇妙な歌をさがしてきますね。でも60〜70年代の遺物みたいな先生が,よく1990年の曲なんて知っていましたね。」

*大 坂 「ま,やっぱり"ネット上のコミュニケーション"を歌った曲なんて,60年代や70年代には存在するはずがないもの。それに,90年代の曲だけれど,このミッシェル=ポルナレフというフランス人歌手は,『シェリーにくちづけ』とか『愛の休日』などの大ヒットで70年代には一世を風靡したロッカーだからね。昔は私も大好きだったんだ。"トゥートゥーポマシェリーマシェリー,トゥートゥーポマシェリーマシェリー"」

*Aさん 「いったいそれ,何語ですか?知りませんよ,そんな歌。」

 会話にもあるように,1970年代に日本でも絶大な人気を誇ったミッシェル=ポルナレフは長い間沈黙を守っていたが,1990年突如アルバム『カーマ・スートラ』で復活した。そのアルバムからのヒット曲がこの『グッドバイ・マリルー』であるが,これは,ネットコミュニケーションを題材とした最も早いヒット曲の例であろう。ここで語られる"僕"と"マリルー"の関係は,完全に無機的であり,

「夜には起きて 夜明けとともに眠る」

 パソコン・オタクの"僕"は,真夜中の部屋でひとり青白い顔をして,ボワっと鈍く光るディスプレイを見つめながら,細い指でキーボードをたたいてメールの交換による"電子恋愛"を楽しむのだ。しかしその"彼女"マリルーもコードネームに過ぎず,年齢も,目の色も髪の色も,そして,実のところ本当の性別さえも分からない。見方によればゾっとする光景だが,このようなシーンは若者たちの間に普通に見られる風景となっており,実際にネット上で知り合い,本当に結婚してしまうカップルも増えている。

*B 君 「不思議な世の中になりましたねぇ。僕らみたいな"年寄り"は,もうついて行けませんよ。」

*大 坂 「何を言うの?それじゃあ,今話をした通りの無気力な"いまどきの"若者じゃないか。」

*Aさん 「そうよ,B君,そんなことじゃだめだわ!さあ,顔を上げて。一緒にあの夕陽に向かって走るのよ。」

*B 君 「そうだ,Aさん。ゴメン。僕が間違っていたよ。さあ,行こう!あの太陽まで!さあ,走るぞぉ!………」

*大 坂 「おいおい…,あーぁ,行っちゃったよ。」

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